駅そばと私

2011.12.17

私は駅の立ち食いそば(駅そば)が大好きである。その記憶は、小学生だった一九七〇年代初頭までさかのぼる。父親とともに立川駅の中央線ホームで、中村亭が営業する「奥多摩そば」の月見そばを食べたのが最初であるが、具体的にいつだったかははっきりしない。ただし定価は覚えている。かけが六十円、月見が七十円で、天ぷらそばは九十円だった。私は内心、天ぷらそばを食べたいと思ったが、父親はケチったのか、私に聞きもせずに月見を注文し、天ぷらそばを食べている隣の客が妙に羨ましく見えたりした。

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その後、七二(昭和四十七)年八月に家族で旅行した諏訪湖からの帰りに八王子駅で玉川亭の「陣馬そば」を、七三年四月に開業したばかりの武蔵野線に乗ったついでに我孫子駅で弥生軒のそばを食べた記憶がある。今度は確か、どちらも天ぷらそばを食べたような気がする。三つの駅そばは、どれも子供心にもうまいと思った。駅そばはうまいもの、という観念が刷り込まれたのである。いまから思えば、それは偶然の産物であった。立川、八王子、我孫子は、首都圏の駅そばの中で、五指に入るほどのレベルに達しているといっても過言ではないことを、当時の私は全く知らなかった。中学、高校は東急東横線の沿線にあったので、もっぱら東急の系列会社が営業する「田園そば」ばかり食べていた。チェーン店の味に慣れてしまった私の舌を、再び深い感動へと誘ったのは、大学三年だった八三年九月に小淵沢駅の中央本線ホームで食べた「観音生そば」(丸政が営業)の天ぷらそばであった。ちなみに「観音」とは、八ヶ岳連峰南端にある展望所「観音平」を指す。標高八百八十メートルを超える高原の空気を吸いながら食べるそばの味には、格別のものがあった。見た目は濃いようだが、かつおのダシとみりんがよく効いた喉ごしの良いつゆに、平打ちの麺がなじみ、すきっ腹にどんどんと染み渡ってゆく。夢中で食べたため、つゆまで全部飲み干すのに二分もかからなかったように思う。後味もよく、小淵沢を出てすぐに急勾配を下る高尾ゆきの普通電車の車窓から、夕闇迫る南アルプスの山容や線路際に生えるススキの揺れ具合を眺めつつ、文字どおりそばの味を反物する余韻を楽しんだものだ。その駅ならではの風景や列車の行き違いを横目で追い、アナウンスや雑踏を聞きながら、ホームで長年営業してきた老舗が作る固有の味を楽しむところに、駅そばの最大の魅力がめった。とりわけ国鉄は、東急などとは異なり、駅ごとに味が違っていた。だから当然、当たり外れも大きく、津田沼や千葉などは別の意味で深く印象に残る駅となっている。